トゥール・ポワティエ間の戦いを分かりやすく解説!勝者は?意義や影響についても

フランス

トゥール・ポワティエ間の戦いとは?

トゥール・ポワティエ間の戦いは、732年にフランク王国とウマイヤ朝イスラム軍との間で行われた歴史的な戦いです。

この戦いは、ヨーロッパの歴史において非常に重要な転機となり、カール・マルテル率いるフランク軍がウマイヤ朝の進軍を阻止し、イスラム勢力のヨーロッパへのさらなる拡大を防ぎました。

この勝利は、後にカロリング朝の確立につながり、キリスト教世界の防衛者としてのフランク王国の名声を高めました。

戦いの背景

イスラム勢力の拡大とウマイヤ朝

イスラム教が7世紀初頭にアラビア半島で誕生した後、その勢力は急速に拡大しました。

特にウマイヤ朝の時代(661年~750年)には、イスラム帝国はイラン、北アフリカ、そしてスペインに至る広大な領土を支配しました。

711年には、ウマイヤ朝の将軍タリク・イブン・ズィヤードがイベリア半島を征服し、その後の20年間でイスラム軍はピレネー山脈を越え、フランク王国の南部に迫るようになります。

732年、ウマイヤ朝の軍勢を率いていたアブド・アッラフマーンは、さらなる拡大を目指してフランス中部に進軍しました。

ウマイヤ軍は騎兵を中心に編成され、速い機動力と略奪による補給を基本とした攻撃を展開しながら、トゥールとポワティエに向かって進軍しました。

イスラム軍の最終目標はフランク王国の打倒と、ヨーロッパ全体への影響力拡大にあったと考えられています。

フランク王国の防衛戦略

この時期、フランク王国はカール・マルテルによって統治されていました。

カール・マルテルは優れた軍事指導者であり、強力な軍を整備することで王国の防衛を強化していました。

彼は騎兵の重要性を理解しつつも、イスラム軍に対抗するためには歩兵を主力とする防御陣形が必要であると判断しました。

732年、カール・マルテルはウマイヤ朝の脅威に対抗するために、各地から急速に兵を集め、彼の指揮の下で戦いに備えました。

彼はフランク王国の強固な防御体制を活用し、地形を有利に使うことで敵の騎兵戦術を無効化しようとしました。

この慎重な防衛戦略が、後にトゥール・ポワティエ間の戦いでの勝利につながります。

戦いの場所と日程

トゥールとポワティエの地理的な重要性

トゥールとポワティエは、ロワール川流域に位置し、フランク王国の中心部への入り口とも言える場所にあります。

トゥールは、古代ローマ時代から商業と宗教の中心地として栄えており、またフランク王国におけるカトリック教会の重要な拠点でもありました。

この都市を守ることは、フランク王国の宗教的および政治的な中枢を防衛することと同義でした。

また、ポワティエはトゥールに次ぐ主要都市であり、この地域を押さえることでフランク王国の南部へのアクセスを守ることができました。

このため、イスラム軍がフランス中部に侵入する際に、トゥールとポワティエを占領することは戦略的に重要な意味を持っていました。

もしウマイヤ軍がこれらの都市を制圧すれば、フランク王国の内部に深く進軍する道が開かれ、西ヨーロッパ全体にイスラム勢力が拡大する可能性があったのです。

732年10月の戦いの概要

トゥール・ポワティエ間の戦いは、732年10月に行われました。

正確な日付は伝わっていないものの、フランク軍とウマイヤ軍は一週間にわたる対峙の末、決戦に至ったとされています。

戦闘が行われた場所は、トゥールとポワティエの間に広がる森林地帯とされています。

カール・マルテルはこの地形を利用し、ウマイヤ軍の騎兵の優位性を封じ込めるため、フランク軍を丘陵地帯に配置しました。

彼はフランク軍に密集した防御陣形を取らせ、イスラム軍の騎兵による突撃を持ちこたえる戦略を採りました。

ウマイヤ軍の指導者アブド・アッラフマーンは、フランク軍の防御陣形を突破しようと何度も攻撃を繰り返しましたが、フランク軍の粘り強い防御により、イスラム軍は決定的な打撃を与えることができませんでした。

そして、決戦の最中、アブド・アッラフマーンが戦死すると、指揮を失ったウマイヤ軍は混乱に陥り、フランク軍が優位に立つこととなりました。

この戦いでのカール・マルテルの戦術的勝利により、ウマイヤ軍は退却を余儀なくされ、その後のヨーロッパへの進出は阻止されました。

この勝利は、フランク王国がイスラム勢力の脅威に打ち勝った象徴的な出来事であり、後のヨーロッパ史に大きな影響を与えました。

トゥール・ポワティエ間の戦いの経過

主要人物:カール・マルテルとアブド・アッラフマーン

この戦いにおいて、カール・マルテルとアブド・アッラフマーンは、それぞれの軍を率いた重要な指導者でした。

彼らのリーダーシップと戦略が戦闘の結果に大きく影響を与えました。

フランク王国の指導者カール・マルテルの役割

カール・マルテル(688年頃 – 741年)は、フランク王国の宮宰(マヨル・ドムス)として実質的な王国の支配者であり、後にカロリング朝を築いた一族の祖として知られています。

彼は優れた軍事指導者であり、内外の脅威に対する防衛力を強化しました。

特にトゥール・ポワティエ間の戦いでは、その戦略的洞察と指導力が勝利に大きく貢献しました。

カール・マルテルの役割は、主に以下の点で重要でした

軍の再編成と強化

フランク王国は常備軍を持たず、領主や兵士を集めて戦うのが一般的でしたが、カールは土地を与える代わりに軍事奉仕を要求する体制を整備しました。

これにより、迅速に戦力を動員することが可能になりました。

戦術的な知識

カール・マルテルは、ウマイヤ軍の強力な騎兵に対抗するため、地形を利用した防御戦術を採用しました。

彼はフランク軍を丘陵地帯に配置し、敵の突撃に耐える戦術を計画しました。

指導力と士気の維持

カールはフランク軍の士気を高め、彼らが守るべきもの(キリスト教世界やフランク王国)を強調しました。

この士気の高さが、戦場での持久力を発揮させた要因です。

イスラム軍の司令官アブド・アッラフマーンの戦略

一方、イスラム軍を率いたのは、ウマイヤ朝の有能な将軍アブド・アッラフマーン(731年 – 788年)です。

彼はイベリア半島での征服を成功させた後、フランス中部へのさらなる進出を試みました。

彼の戦略は迅速かつ大胆で、騎兵を中心にフランク王国を圧倒する計画を立てていました。

アブド・アッラフマーンの戦略には次の特徴がありました
騎兵を中心とした機動力

イスラム軍の主力は騎兵でした。彼らは軽装で機動力が高く、フランク軍よりも迅速に戦線を移動できることが強みでした。

アブド・アッラフマーンは、この騎兵の強みを生かして敵を突破し、都市を奪取することを目指しました。

略奪と補給

イスラム軍は、略奪によって補給を維持しつつ進軍していました。

これは長期的な戦略ではなく、素早く敵を打ち破り、物資を確保しながら進むことで、勢力を拡大する方式でした。

フランク軍の殲滅

アブド・アッラフマーンは、フランク軍を早期に壊滅させ、フランス中部を支配することが戦略の中心でした。

しかし、彼はフランク軍が想像以上に堅固な防御を展開するとは予想していませんでした。

戦闘の詳細:フランク軍の防御戦術

トゥール・ポワティエ間の戦いは、戦術的に非常に興味深い戦闘でした。

カール・マルテルの率いるフランク軍は防御的な戦術を採用し、イスラム軍の優れた騎兵に対抗しました。

この戦術が、最終的にフランク軍を勝利へと導いたのです。

フランク軍の「歩兵方陣」の戦術

カール・マルテルの戦略の核心は、歩兵部隊を密集した防御陣形(ファランクス)に編成し、イスラム軍の騎兵攻撃を封じ込めることにありました。

歩兵方陣(ファランクス)は、兵士たちが盾を構えて一列に並び、壁のような防御を形成する古代ギリシャからの戦術です。

地形を活用した防御

カール・マルテルは、フランク軍を丘陵地帯に配置し、敵の騎兵突撃を阻止しやすくしました。

騎兵は平地での機動戦に強い一方で、斜面では機動力が大幅に制限されます。

このため、フランク軍は防御を固め、敵の攻撃を耐え抜くことができました。

重装備歩兵の優位性

フランク軍の歩兵は、厚い盾と重い鎧を装備しており、密集陣形を取ることで騎兵の突撃を防ぎました。

ウマイヤ軍の軽装騎兵は、こうした重装歩兵に対して突破するのが困難でした。

持久戦の戦術

カール・マルテルは短期決戦ではなく、長期にわたる持久戦を意図していました。

イスラム軍がフランク軍の陣形を突破できない間に、彼らは物資不足や士気の低下に苦しむことになります。

この持久戦略が、結果的にフランク軍の勝利につながりました。

ウマイヤ軍の騎兵攻撃

ウマイヤ軍の強みはその騎兵部隊にありました。

彼らは軽装の騎兵であり、速い機動力を持ち、敵を素早く包囲し破壊することを得意としていました。

しかし、トゥール・ポワティエ間の戦いでは、フランク軍の堅固な防御に直面しました。

騎兵による突撃

ウマイヤ軍は何度も騎兵による突撃を試みましたが、フランク軍の方陣に阻まれました。

騎兵は敵の陣形を崩すことができず、逆に自軍が損害を受けました。

指揮官アブド・アッラフマーンの戦死

戦闘中、ウマイヤ軍の指揮官アブド・アッラフマーンが戦死したことで、イスラム軍は指揮系統を失い、統率が取れなくなりました。

これが決定的な敗北の要因となり、ウマイヤ軍は退却を余儀なくされました。

このように、トゥール・ポワティエ間の戦いでは、カール・マルテルの巧みな防御戦術とフランク軍の堅固な戦闘力がウマイヤ軍の進軍を阻止しました。

この戦いでの勝利により、フランク王国はヨーロッパにおけるイスラム勢力のさらなる進出を防ぎ、その後のカール・マルテルと彼の一族がヨーロッパで強大な権力を握る基盤を築くこととなりました。

トゥール・ポワティエ間の戦いの結果とその影響

トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)は、フランク王国のカール・マルテルがウマイヤ朝のイスラム軍を撃退した、歴史的に重要な出来事です。

この戦いは、イスラム勢力のヨーロッパ侵入を食い止めただけでなく、後の西ヨーロッパのキリスト教国家群の形成にも深く影響を与えました。

以下では、この戦いの結果とその後の広範な影響について詳しく説明します。

フランク軍の勝利とウマイヤ朝の退却

カール・マルテルの軍事的成功

カール・マルテルの率いるフランク軍は、イスラム軍の進軍を阻止し、戦術的に重要な勝利を収めました。

この勝利は、カール・マルテルの軍事的才能と、彼の指導の下でフランク軍がどれほど効率的に組織されていたかを証明するものです。

特に、カールが採用した防御的な戦術と、フランク軍の歩兵の堅固な方陣(ファランクス)戦術が決定的な役割を果たしました。

カール・マルテルは、地形を巧みに利用し、イスラム軍の騎兵突撃を無効化する戦略を成功させました。

イスラム軍の司令官アブド・アッラフマーンが戦闘中に戦死し、指揮系統が混乱したことで、イスラム軍はフランク軍を突破することができず、逆に自軍が弱体化していきました。

最終的に、イスラム軍は退却を余儀なくされ、フランク軍の勝利が決定的となりました。

イスラム勢力の撤退

この戦いの結果、ウマイヤ朝のイスラム軍はフランス中部から撤退を始め、その後、彼らが再びフランク王国へ侵攻することはありませんでした。

アブド・アッラフマーンの死によって士気が低下したイスラム軍は、フランスでのさらなる進出を諦め、ピレネー山脈を越えてイベリア半島へ撤退します。

ウマイヤ朝はその後もイベリア半島に一定の勢力を保ち続けますが、西ヨーロッパへの進出は事実上終わりを迎えました。

トゥール・ポワティエ間の戦い以降、フランク王国と他のヨーロッパのキリスト教国家がイスラム勢力の侵攻に対する守りを固め、さらなるイスラム圏の拡大を抑えることに成功しました。

西ヨーロッパの歴史に与えた影響

この戦いの勝利は、単なるフランク王国の防衛成功にとどまらず、西ヨーロッパ全体の歴史的進路に大きな影響を与えました。

もしイスラム軍がフランク王国を打ち破り、ヨーロッパ内陸部への進出を続けていたなら、キリスト教ヨーロッパの歴史は大きく変わっていたかもしれません。

ヨーロッパにおけるイスラムの拡大阻止

トゥール・ポワティエ間の戦いは、イスラム勢力が西ヨーロッパに広がることを阻止した重要な出来事とされています。

イスラム教勢力は7世紀以降、急速に領土を拡大していましたが、トゥール・ポワティエ間の戦いを契機に、ヨーロッパにおける拡大は止まりました。

その後、イベリア半島ではイスラム支配が続きましたが、フランク王国を含む北方のキリスト教諸国はこれを脅威と見なし、対抗する準備を整えていきました。

この戦いは、後の十字軍運動やレコンキスタ(イベリア半島でのキリスト教徒による奪回運動)といった出来事にもつながる、イスラム教とキリスト教の間の長期的な対立の象徴としても位置付けられます。

カール・マルテルのその後の影響力

トゥール・ポワティエ間の戦いでの勝利により、カール・マルテルは「キリスト教世界を救った英雄」として称賛されるようになりました。

彼の軍事的成功はフランク王国の内部でも絶大な影響を持ち、その後のカロリング朝の確立に向けた基盤を築きました。

フランク王国の支配強化

カール・マルテルはこの戦いを通じて、王国の安全を確保しただけでなく、フランク王国における自らの権威を確固たるものにしました。

彼は戦後も王国内の統制を強化し、封建制の基礎を固めることで、後のフランス国家の基礎を築きました。

カロリング朝の成立へ

カール・マルテルの孫であるシャルルマーニュ(カール大帝)は、800年に神聖ローマ皇帝として戴冠し、ヨーロッパ全体に強い影響力を持つ存在となりました。

この栄光の一部は、カール・マルテルの勝利によって得られたものであり、彼の軍事的な遺産が後世にわたって続いたことを示しています。

ヨーロッパ統合の象徴

カール・マルテルの勝利は、ヨーロッパの統合に向けた重要な一歩ともなりました。

彼の後継者たちは、ヨーロッパを一つにまとめる試みを進め、その結果として、キリスト教文化を中心としたヨーロッパ社会が形成されていきました。

トゥール・ポワティエ間の戦いの結果は、フランク王国と西ヨーロッパ全体にとって大きな勝利となり、カール・マルテルの名声を高めただけでなく、イスラム勢力のさらなるヨーロッパ進出を防ぎました。

この勝利は、キリスト教世界を防衛した象徴的な出来事として歴史に刻まれ、その後のヨーロッパ史に深い影響を与えました。

トゥール・ポワティエ間の戦いの歴史的意義

トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)は、フランク王国とウマイヤ朝イスラム軍の間で行われた歴史的な戦闘であり、その結果はヨーロッパ史に多大な影響を与えました。

西ヨーロッパにおけるキリスト教文化の防衛という観点から、この戦いはしばしば「ヨーロッパを救った戦い」として評価されますが、その歴史的意義については学者たちの間で異なる意見も存在します。

また、この戦いをきっかけに、キリスト教ヨーロッパとイスラム世界の間に宗教的対立が浮き彫りとなる一方で、文化的な交流も生まれました。

「ヨーロッパを救った戦い」としての評価

トゥール・ポワティエ間の戦いは、歴史学者や評論家の間で、しばしば「ヨーロッパを救った戦い」として評価されます。

これは、もしフランク軍がウマイヤ朝の軍勢に敗れていたならば、ヨーロッパ全体がイスラムの支配下に置かれていた可能性があると考えられているためです。

この戦いがキリスト教世界を守り、ヨーロッパの独自の発展を可能にしたという見方が広く共有されています。

歴史学者による評価

多くの歴史学者は、トゥール・ポワティエ間の戦いが西ヨーロッパの歴史において非常に重要な転機であったと評価しています。

特に、カール・マルテルがこの戦いでフランク王国を守り抜いたことにより、キリスト教がヨーロッパの主要宗教として継続的に発展できたとされます。

この戦いは、ウマイヤ朝による西ヨーロッパへのさらなる侵略を防ぎ、キリスト教文明が衰退することを防いだと考えられています。

この見方は、特に19世紀の歴史学者によって強調されました。

例えば、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』では、トゥール・ポワティエ間の戦いを「ヨーロッパの運命を決定づけた戦い」として称賛し、フランク軍の勝利がなければ、ヨーロッパのキリスト教文化がイスラム文化に取って代わられていたかもしれないと述べています。

異論と批判的視点

一方で、現代の歴史学者の中には、この戦いの重要性をやや過大評価しているとの異論を唱える者もいます。

彼らは、ウマイヤ朝がすでに内部での政争や経済的な困難を抱えていたため、フランス中部でのさらなる侵攻は現実的には難しかったと指摘します。

つまり、トゥール・ポワティエ間の戦いがなかったとしても、イスラム軍がヨーロッパ全土を支配することはありえなかったと考える学者もいるのです。

また、ウマイヤ朝の戦略は、必ずしも西ヨーロッパ全体を征服することではなく、略奪による経済的利益の獲得やフランク王国に対する威圧を目的としていたとも言われています。

このため、戦いの結果が西ヨーロッパ全体の命運を分けたとする見方は、一部の学者によって過度にドラマチックに解釈されているとの批判もあります。

キリスト教ヨーロッパとイスラム世界の関係

トゥール・ポワティエ間の戦いは、キリスト教ヨーロッパとイスラム世界の間での大規模な軍事的衝突の一つとして、宗教的対立を象徴する出来事となりました。

これ以降、キリスト教世界とイスラム世界は長期にわたって対立関係にあり続け、後の十字軍やレコンキスタなど、宗教的動機による紛争が続くことになります。

しかし、この衝突の中でも、双方の文明は互いに影響を与え合い、文化的な交流も少なからず生じました。

宗教的対立の深刻化

トゥール・ポワティエ間の戦いは、キリスト教徒とイスラム教徒の間の宗教的対立を象徴する戦いとして、両者の関係において重要な転機となりました。

この戦い以降、イスラム勢力はイベリア半島において領土を維持しましたが、フランク王国を中心とする北ヨーロッパのキリスト教国家群とは一線を画するようになります。

この宗教的対立は、8世紀以降さらに深刻化し、11世紀には十字軍運動が勃発します。

キリスト教世界は、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還することを目的とした遠征を繰り返し、イスラム世界との対立が決定的なものとなります。

また、イベリア半島ではレコンキスタが展開され、キリスト教勢力によるイスラム勢力の排除が進められました。

このように、トゥール・ポワティエ間の戦いは、キリスト教とイスラム教という二つの大きな宗教勢力の間に緊張を生み出す要因の一つとなり、後の宗教戦争や対立の引き金となったと見ることができます。

文化交流の始まり

しかし、宗教的対立とは対照的に、キリスト教ヨーロッパとイスラム世界の間では、この時期を通じてさまざまな文化交流も進展しました。

イスラム世界が中東や北アフリカ、さらにはイベリア半島を支配することにより、ヨーロッパはイスラム文明の知識や技術に触れる機会を得るようになります。

科学と学問の伝播

イスラム世界は、ギリシャ・ローマの古典文明を発展させ、数学や天文学、医学、哲学といった分野で優れた成果を挙げていました。

これらの知識は、特にイベリア半島を通じてヨーロッパにもたらされ、後にルネサンスの基盤となる知的遺産として継承されました。

交易の拡大

イスラム世界は広大な領土を持っていたため、インドや中国といったアジアとの交易を活発に行っていました。

ヨーロッパもまた、これらの交易ルートに参加することで、東方の物産や技術を手に入れることができました。特に、香辛料、絹、紙などの貴重品がヨーロッパに流入し、経済的な影響も大きかったです。

このように、トゥール・ポワティエ間の戦いは宗教的な対立を深める契機となる一方で、文明間の相互影響や文化交流の始まりをもたらす結果にもなりました。

トゥール・ポワティエ間の戦いに関するトリビア

トゥール・ポワティエ間の戦いは、ヨーロッパの歴史における重要な戦いとして知られていますが、この戦いに関連するさまざまな逸話や興味深い事実もまた歴史的な魅力を増しています。

カール・マルテルの「ハンマー」というニックネームや、この戦いがフランク王国の成長とカロリング朝の誕生にどのように寄与したかは、歴史をより深く理解するうえで欠かせないポイントです。

カール・マルテルと「ハンマー」のニックネームの由来

カール・マルテル(688年頃 – 741年)は、後に「ハンマー(ラテン語でマルテル)」という意味の異名を持つことになります。

この異名は彼の軍事的才能を称賛するものであり、特にトゥール・ポワティエ間の戦いでの勝利によって得たものと考えられています。

では、なぜ「ハンマー」というニックネームが付けられたのでしょうか?

戦場での強力な打撃力

「ハンマー」というニックネームの由来は、彼の戦場での強力な軍事力とその指導力に対する象徴的な表現とされています。

カール・マルテルは、敵を破壊的に打ち砕く能力に優れており、特にトゥール・ポワティエ間の戦いでは、ウマイヤ軍を壊滅させるほどの力を発揮しました。

彼の戦術は、ただ敵を防ぐだけでなく、敵の中心を打ち砕き、その軍勢を完全に無力化するという攻撃的な要素を持っていました。

このため、彼の戦術や勝利は「ハンマーのような強力な打撃」として比喩されるようになったのです。

王国の再建者としての役割

さらに、「ハンマー」の異名は、カール・マルテルがフランク王国を再建し、内部での混乱を鎮め、外部の脅威に対しても強固な防衛体制を築いたという点にも関連しています。

彼はフランク王国を一つにまとめ上げ、その軍事力を増強することで王国の安定をもたらしました。この内外の敵を打ち砕いた彼のリーダーシップが「ハンマー」と称された理由の一つです。

また、カール・マルテルの異名が特に強調されるようになったのは、彼の子孫であるカロリング朝が後に成立し、彼の業績がさらに評価された時期です。

カロリング朝は彼を「祖」として崇め、その軍事的成功を強調することで、自らの正当性を確立しようとしました。

戦争後のフランク王国の成長とカロリング朝の誕生

トゥール・ポワティエ間の戦いにおけるカール・マルテルの勝利は、単にイスラム軍を撃退しただけでなく、フランク王国の成長においても重要な役割を果たしました。

この勝利が、後にフランク王国の政治体制や統治構造を発展させ、カロリング朝という新たな王朝を生み出す基盤となったのです。

フランク王国の軍事的強化

カール・マルテルはこの戦いの後、フランク王国内での軍事的、政治的支配をさらに強化しました。

彼はトゥール・ポワティエ間の戦いで得た名声を活かし、各地の領主や貴族たちからの支持を集めていきました。

この戦勝により、彼はフランク王国の実質的な支配者となり、内部の敵対勢力を制圧し、外部からの侵略に備えるための強力な軍事体制を築き上げました。

特に、騎兵の活用と土地制度の改革がカール・マルテルの功績として挙げられます。

彼はフランク王国の封建制度の基礎を築き、土地を与える代わりに軍事奉仕を義務付ける体制を強化しました。

この制度は、後のフランス王国の封建的な社会構造の基礎となり、また彼の子孫によるさらなる拡張と統治の安定に寄与しました。

カロリング朝の誕生

カール・マルテルの軍事的成功と政治的影響力は、彼の子孫がフランク王国を継承し、カロリング朝を築く道を開きました。彼の息子であるピピン3世(ピピン短躯王)は、751年に自ら王位に就き、メロヴィング朝を廃してカロリング朝を開きました。

この新王朝の成立は、カール・マルテルが築いた強固な軍事力と政治的基盤がなければ実現し得なかったでしょう。

ピピン短躯王の治世を経て、さらにその息子であるカール大帝(シャルルマーニュ)が800年にローマ教皇によって「神聖ローマ皇帝」に戴冠されることで、カロリング朝は西ヨーロッパ全体を統治する強力な王朝へと成長します。

カール・マルテルの戦争後の改革とフランク王国の強化が、このカロリング朝の繁栄をもたらしたと言えます。

教会との関係強化

また、カール・マルテルは教会とも強固な関係を築き、これが後のカロリング朝における教会との協力関係の基盤となりました。

彼は教会の保護者としての役割を果たし、トゥール・ポワティエ間の戦いではキリスト教世界をイスラム教勢力から守った英雄として称賛されました。

この流れは、ピピン短躯王とローマ教皇の連携、そしてカール大帝の神聖ローマ帝国建設へと繋がっていきます。

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